History of Kutchan & Yokozeki construction industry

大地の記憶を紡ぎ、
さらなる未来へ。

History of Kutchan & Yokozeki construction industry

羊蹄山やニセコ連峰と連なる倶知安の大地に開拓の鍬が下されてから130年余り。
その歴史をともに紡いできた私たち横関建設工業には、
100年先の未来に向けて「まち」と「くらし」を継いでいく使命があります。

「まち」を
築くということ。
「くらし」を
支えるということ。

横関建設工業の歴史は、倶知安町とともにありました。
「まち」を築き、人々の「くらし」を支え続けてきた確かな記憶。
それは土木工事・建築工事だけでは語り尽くせない
試行錯誤の連続でもありました。
そして、今も、これからも様々な社会の変化や困難を
乗り越えていかなくてはなりません。
だから、今こそ100年を超える歴史を紐解き、
新たな時代を生き抜くヒントを探します。
「まち」と「くらし」を、遥か未来へと継いでいくために。

明治時代

Meiji Period

1868 1912

倶知安町での開拓が始まったのは、1892(明治25)年のこと。森に覆われた鬱蒼とした原野をわずか5人で開墾したといわれています。
翌年には虻田戸長役場の管轄となる倶知安村に。その後、尋常小学校や神社、駅逓、郵便局などがつくられ、明治後期には北海道鉄道が開通。倶知安は、小樽と函館を結ぶ中間に位置することから開拓の拠点として栄えていたそうです。こうして町として形作られるとともに入地者は着実に増え、開墾から15年で159戸以上が暮らす村へと成長していきました。

1892
第一次移住者として真鍋浜三郎ほか
5人が倶知安原野へ入墾
1904
北海道鉄道開通、
倶知安・比羅夫両駅開業
1912
レルヒ中佐、旭ヶ丘公園予定地(小黒の山)で
スキーの練習を公開。

明治時代

Meiji Period

  • 1892
  • 1904
  • 1912

徳島県より第一次移住者として、倶知安開拓の祖、じゃがいも栽培の父と呼ばれている真鍋浜三郎ほか5人が倶知安原野へ入墾した。

函館と小樽を結ぶ、北海道鉄道の函樽線(現JR函館本線)が全通。倶知安には、倶知安・大曲駅(現・比羅夫駅)両駅開業し、更に発展をしていくきっかけとなった。

日本で初めて本格なスキー指導を行ったオーストリアのレルヒ中佐が日本軍にスキー技術を伝えるために旭川へ。その後、倶知安・旭ヶ丘公園予定地でスキー練習を公開。翌日には羊蹄山登頂。

明治17年10月16日、香川県三豊市で創業者である横関峯太郎が誕生。6歳で来道し、明治43年倶知安町に転住。

大正時代

Taisho Period

1912 1926

大正時代に入ると、町制施行によって倶知安町へと改称。1919(大正8)年には京極軽便線の倶知安―京極間が開通し、翌年には脇方まで延伸しました。また、1922(大正11)年には、後志支庁舎を利用して後志高等国民学校が開校したそうです。
ちょうどその頃、倶知安町にある札幌土木事務所の出先機関で働いていたのが、横関建設工業の創業者・横関峰太郎です。峰太郎は、その後35歳で退職し、翌年には「横関工業所」を創立。倶知安土木建築請負業組合の設立にも参加し、建設業の近代化に尽力しました。

1916
町制施行、倶知安村を
倶知安町と改称
1924
倶知安土木建築請負業組合が
設立される。

大正時代

Taisho Period

  • 1916
  • 1924

1916年、町制施行により倶知安村を「倶知安町」と改称されました。
それまでは、虻田戸長役場(現在の洞爺湖町)の管轄の倶知安村とされていました。

1924年、倶知安土木建築請負業組合が設立されました。このあと、倶知安商工会などが設立され更に町としての機能が整備されていきます。

  • 1927

土木工事を主体としてスタート。
かつては、北海道庁に勤務して、この地にその出先事務所があったことから、ここで土木を始めた。当時に計画された国道橋は、ほとんどが横関峰太郎が手掛けたことから、その維持・補修も含めて「橋の横関」と言われていたと当時を知る業界人は語る。

昭和時代

Showa Period

1926 1989

戦争に翻弄された昭和初期を乗り越え、倶知安町もまた新たな時代を迎えました。
スキーブームが始まった1960年代には、町内にあるスキー場でリフトや照明などの設備が充実し始め、多くのスキーヤーが注目する町に。1964(昭和39)年にスイスのサンモリッツ市との姉妹都市提携を議決すると、1972(昭和47)年には「スキーの町」宣言を行いました。
「スキーの町」として人気が高まる一方で、町の近代化も進み、1960年代には人口が2万人ほどに。名産のじゃがいもを活かした祭りが開催されるなど、町内外での交流が盛んになっていきました。

1961
ニセコひらふスキー場に
ニセコで初のスキーリフトが開業。
1964
スイス・サンモリッツと
姉妹都市提携。
1977
洞爺湖町・有珠山が噴火。
倶知安町にも灰が飛んでくる。

昭和時代

Showa Period

  • 1961
  • 1964
  • 1977

ニセコひらふスキー場(現:ニセコ東急グラン・ヒラフ)にニセコで初のスキーリフトが開業。ここからスキー産業が活発になっていく。

日本初のスイス姉妹都市提携となったサン・モリッツは国際的なスキーリゾートとして知られる都市です。皇族が倶知安町を訪問した際に「東洋のサン・モリッツ」と報道されたことをきっかけに、姉妹都市提携へと繋がりました。

1977年、洞爺湖町・有珠山が噴火。約1年続いた噴火で有珠新山ができるほど規模の大きいものでした。その衝撃から倶知安町にも火山灰が飛来し被害を受けました。

  • 1972~2006
  • 1976/1978
  • 1987

民有林直轄治山事業として羊蹄山に低ダム群工法による治山工事を施工。
羊蹄山は豊かな水源をもたらしてくれる一方で、融雪期・大雨の時には多くの土石流被害を与えてきました。これを解決するために1976年から小さいダムを階段式に施工する「低ダム群工法」による治山工事が行われました。

倶知安東陵中学校新築・倶知安中学校建替工事を施工
1976年に倶知安東陵中学校新築工事を三井・横関JVで施工。1978年に倶知安中学校建替工事を、三井・横関・林・瀬尾JVで施工。倶知安中学校は開拓当時からある学校で、歴史ある建物の一つでした。

株式会社イー・エフ・エッチコンサルタント、「ニセコ・羊蹄の明日を築く会」設立
倶知安町のまちづくりに更に関わりが深くなっていきます。この活動から現在も続いている「くっちゃん21雪ダルマの会」や「ペルー共和国と交流する会」へと繋がります。

平成時代

Heisei Period

1989 2019

時が平成に移ると「スキーの町」としての魅力が海外へと伝わり、多くの外国人観光客が訪れる国際色豊かな街並へ様変わりします。
2000年代からは海外のスキーリゾートのように長期滞在が楽しめるコンドミニアムの建設がスタート。さらに冬季のスキーに限らず、ラフティングやトレッキング、フィッシング、キャンプなど、夏季に楽しめるアクティビティも人気を集め、1年中賑わう北海道でも屈指の観光スポットになりました。
また、町内での暮らしに目を向けると羊蹄大橋やサンモリッツ大橋の開通、電線の地中化など、さらなる暮らしやすさを目指してインフラ整備も進められました。

1993/2000
北海道南西沖地震・
有珠山噴火
2003
コンドミニアムの
建設が始まる。
2005
羊蹄大橋、
サンモリッツ大橋が開通

平成時代

Heisei Period

  • 1993/2000
  • 2003
  • 2005

1993年北海道南西沖地震、2000年有珠山噴火が起き、自然災害により後志地方は大きな打撃を受けました。

北海道を代表する世界的なリゾート地へと成長した俱知安、ニセコ、蘭越の3町からなる「ニセコ観光圏」では、高級リゾート施設が続々と誕生しました。倶知安町でもコンドミニアムの建設が始まりました。

サンモリッツ大橋は延長446m、総幅員12m、尻別川とJR函館本線を渡る橋梁。開通したことで冬期の通行が安全に快適になりました。横関建設工業ではその一部を施工担当しています。

  • 1989
  • 2012

北七条団地、望羊団地、ひまわり団地などの町営住宅を手掛ける
1980年代、人口のピークを迎えた倶知安町では多くの団地施工が行われました。横関建設工業でも北七条団地、望羊団地、ひまわり団地などの町営団地を手掛けています。

国道5号の電線地中化工事を手掛ける

令和時代

Reiwa Period

2019

新型コロナウイルス感染症の流行によって働き方や暮らし方が大きく変わり、まさしく新しい時代を迎えた令和の世。倶知安町でも様々なイベントが中止になりましたが、それでも町民だけでなく多くの人々への望みとなるよう「希望の花火」が打ち上げられました。
夜空に咲いた大輪の花々を見た私たちは、未来に向かって歩み続けていこうと決意を新たに。
北海道新幹線や後志自動車道の整備をはじめとしてビジネス・観光など、あらゆる面で倶知安町のポテンシャルが大きく広がっていくことを信じて、町とともに挑戦を続けてまいります。

2030
北海道新幹線倶知安駅、
後志自動車道倶知安IC開通予定

令和時代

Reiwa Period

  • 2030

北海道新幹線の札幌駅延伸が決まり、倶知安町にも新幹線駅ができることが決定。また、後志自動車道倶知安ICが開通する予定です。

  • 2020

創業100周年を迎える
2020年、創業100周年を迎えることができました。
これからも、地域と共に困難に打ち勝ち、成長していけるように邁進していきます。

開拓時代からの学びを
次代に繋げる役割
横関二百年構想で、
未来を拓く。

解決策を生み出すのがデザイン思考であるとすれば、アート思考は問いを生み出す行為である。根本的に常識を疑い、考え直す際にアートから学ぶことができる。
例えば情報技術を使った作品を見ることによって、情報技術が持っている課題や問題を考え直すことが可能だ。
進むべき方向が定まっているビジネスでデザイン思考は有効だと言えるが、アート思考の特徴は360度見渡して試行錯誤する。

ゼロカーボン北海道
チャレンジプロジェクト
現場内休憩所にソーラーシステムハウス、現場作業にハイブリット重機を採用しました。その他に、J-クレジットを購入し、地域の環境整備に貢献しています。
地域の特性に
合わせた建築
倶知安町独自の住宅基準「くっちゃん型住宅」をお客様にご提案。
道産木材を積極的に活用しています。
新技術への
取り組み
2D・3Dの設計データを使用する「ICT建機」を現場へ導入。それに合わせ、CADオペの採用やARを用いた地先説明なども行っています。
暮らしに寄り添う
社員への手当支給
家族手当に加えて、近年はコロナ手当や介護手当を支給しています。
また、会社と個人の将来目標が少しでも繋がるようにと決算手当も支給しています。
いまの時代に合った
インフラ整備
魚道研究会や羊蹄ニセコ自転車走行協議会の一員として活動する中で、魚道や砂防ダム、道路などの現在の状況に合ったありかたについて地域の声を提案しています。
まちづくりへの
積極的な関わり
お客様や自社の社員、またその家族が暮らし続けたいと思える地域であり続けられるよう、町の再整備や景観計画などに積極的に参加・取り組んでいます。

次の時代の礎を築くことが
私たちの使命です。

私たちは、先人たちが積み上げてきた歴史の上で生活をしています。
そして、これからは私たちが歴史を重ね、次代へとつないでいかなくてはなりません。
これからも続く「まち」と「くらし」のために。
遥か未来の倶知安町、北海道に想いを馳せながら新たな礎を築いていきたいと願っています。
そんな私たちに興味を持たれたら、ぜひお気軽にご連絡ください。
「まち」のこと、「くらし」のこと、色々なことをお話ししましょう。

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